ised glocom 設計研第五回よりメモ

メールは使いようなんだと思います。メールは意図した人にしか届かないので、情報は共有されているといえばされている。しかし、読む側からのアクセスというのが非常に悪いと思うんです。結局、はてなでは実はほとんどメールを使っていません。対外的になにか連絡するときBCCで社内に投げるといったことはしますが、個人発の情報はブログに書くようにしています。なぜかというと、ひとつはメーリングリストというのは公共の場所になってしまうので、自発的に発言する人が減ってしまうからです。逆にブログは基本的に誰でも読める状況で、読む側が情報を取捨選択する。興味のない人・ある人の境界を設ける必要がないわけです。

 メールがだめならメッセンジャーはどうだという話がありますが、これは非常に生産性を下げてしまうと思います。チロリンと話しかけられたときにプログラムを書いていると、10分ぐらい中断されてしまって、結局なにをやっていたのか忘れてしまうといったことが起こる。メッセンジャーは同期的すぎるわけです。そこで、準非同期ぐらいでいいなと思うのはブログなんですね。

東さんがはてなに一貫する哲学ということで、「自分のためにやっていたら自然となにかに参加している」という仕組みになっていると指摘されました。これはたしかに一貫して意識しているところなんです。そうしなければ、わざわざはてなでやる意味がないとすら思っています。たとえばブログのサービスを提供するにあたって、単なるブログレンタルサービスでは単なる交換可能な場所貸しにすぎない。ですからブログサービスのようなものをやる構想はかなり前からあったんですが、踏み切りませんでした。それではなぜはてなダイアリーを始めたのか。これはやはりキーワードの仕組みを思いついたからです。自分が日々の出来事を気ままに書いているだけで、普段は関係ない人への価値がつくられていくという装置。これを思いついたので、サービス開始に踏み切ったところは大きいんですね。

たとえば、近藤さんは最後に、社員・ユーザー・消費者に統治される会社はもはや地方自治体に近いとおっしゃっていた。たしかにそうなんですよ。ただ地方自治体には郷土愛がある。他方、予測市場に郷土愛はない。そこにあるのは、いつのまにか他人がに関心を持たざるをえないようなアーキテクチャだけです。したがって、これは、郷土愛が衰退した共同体でいかに自治体運営に人々巻き込んでいくか、という問題への一種の回答になっていると思います。この解には普遍的な含意があります。

つまり0を1にする作業と、1を10にする作業というのは別の方法論が必要ということです。そしてはてなアイデアは1を10にする連続的な改善に有効だということがわかり始めているんです。一方で0から1をつくりだす非連続的なものづくりについては、方法論はいまだ見えない、というのが現状です。

ケインズの美人コンテストの場合は価格によってリターンが決まるので、基本的にループになってしまうんです。一方はてなアイデアアカデミー賞予測市場というのは、最終的な決定をする人はその市場の外側にいるわけです。だから、いいんですよ。つまりバブルが起きないんですね。

研究会を生産的にするというミッションは、学際的な研究会では特に難しい。人文系はアウトプットが言説になる。言説というアウトプットは、議論や思考と同じかたちをしている。だからぐるぐるとまわってしまう。isedが議事録そのものをアウトプットにしているのも必然性があって、ものづくりじゃない限りこういう形式を取らざるをえない。ただそれはループに陥ってしまう。人文系で学際的な研究がうまく行かないのは、この問題があるからです。アウトプットを設定する、ミッションを設定することさえできれば、いまの世の中ではすぐに学際的な研究はできる。しかし、それこそが難しい。

つまり、知の学際的なネットワークをどうつくればいいのかという問題があって、その成否はアウトプットをどう設定するかにかかっている。この点は村上さんのおっしゃったとおりで、ゴールを設定しないでプロセスだけオープンにしても意味がない。