波状言論を読む。

リスク管理社会とセキュリティの問題は、深刻だ。なぜなら、それがなかなか理解さにくい、新しい不自由さをはらんだものだから。

リバタリアンと工学の不幸な結婚に抵抗するには、非常に理論的な再考(自由の、リベラリズムの、)が必要だということが力説される。

自由を考える』では、それを名指すために、マルクスが疎外という概念を発明したのと同様、人文的な概念の発明がぜひとも必要だという。

そこで、東氏が決定的におもしろいことを言っていた。管理社会で失われる自由とは何かというのをあえていうならば、すこし無理のある言い方だが、それは「犯罪をおかす自由」であると。

これは、すばらしい表現だ、と直感的に思った。それ以来、この言葉が頭にこびりついてはなれない。

リスクを予防的に先取りすることは、犯罪を未然に防止するという発想に等しく、さらにそれをつきつめていくと、世の中、潜在的な犯罪者でいっぱい、ということにでもなるか。

それと、偶然性の感覚の問題は、どう絡むか。外的な偶然性を内的な必然性として受け止めるまで、〈運命〉を〈宿命〉と観ずるまでに流れる時間。それは、普通、葛藤とよばれ尊重されてきたはず。

また、この時間は、悲劇の構造そのものだ。

しかし、偶然性が、アウラをまとった一回性になりそこねる、とはどういうことか。それが、工学的な偶然性にとってかわられ、さらに過剰な流動性が偶然性を感受する能力を麻痺させるとしたら、どうなるのか。

ということは、管理社会を生きる私たちには、悲劇は存在しない、とでもいうのか。少なくとも、悲劇を顕在化させるのは、難しいということか。だから、映画『ユリイカ』は4時間もの時間を必要としたのか。

そういえば、『蛇にピアス』がなんとなく不気味なのは、悲劇へと至る葛藤が、形成されない/しそこねることにあるのではないか。

選評で、村上龍は、刺青が主人公の救いとならないことに、最初、居心地悪さを感じたといっている。しかし、読み返して、それが「破綻のない全体をもった作品」としての強みだと思い直したともいう。

もし刺青が、輝かしい負のシンボルとして機能していたら、それはルイが悲劇の主人公=有徴の者ということだろう。しかし、有徴の者たらんとする彼女の欲望は、空回りをする。だって、ルイは「普通」の子なんだから。つまり、物語が、悲劇的な構造に回収されるのを拒んだ点で、この作品はすぐれて「小説」的であるということ。

身体改造というのは、成熟が不可能になった時代の、産物である。

「一歩一歩、わたしは着実に進歩している。今日よりも明日の私は、すばらしいはず。」例えば、それを信ずることができれば、「成熟」というものがありえる。今は、それが難しい。社会が複雑であるがゆえに、何を基準に成長していると判断するべきか、わかりずらいからである。

そのかわり、ルイは、一歩一歩着実に、舌ピを拡張する。それは、はっきりと「成長」していることを感じたいという切実な願いの裏返しだ。つまり、単にそれを異常な行為として否定することは、できないのだ。(RPGゲームも成長という概念にとりつかれている点では、これと同じか。)

そんな彼女を救うのは、アマの死だ。また、それはシバの殺人でもあるかもしれない。これはどういうことか。

それは、三角関係の極限である。三角関係そのものは、近代人の欲望そのものであり、古典的でさえある(夏目漱石)。しかし、『蛇にピアス』が新しいのは、次のようなこと。

他者の死が、かろうじて、とりかえのきかない一回性の役割を果たしている。

しかし、これだけなら、他者の死によって、自分の生を確信するというありふれた話。私がいいたいのは、そういうことではない。

次のような会話を見よ。

「パンクとギャングとギャル、がいっしょにならんでるってすごいよね。」
「わたしは、ギャルじゃないって。」

このような会話にみられるのは、人が、パンクやギャングやギャルの姿を選択するのは、あくまで恣意的であって、そこには必然性が何ら感じられないという意識である。あるいは、ルイはそのような一方的なカテゴライズに、必然性を感じられない。

この恣意性の意識は、リバタリニズムの社会、過剰流動性の社会がもたらしたもの。ルイは、このような恣意的な選択肢にあふれてはいるが、なんら必然性を感じられない/させない社会を嫌悪している。

そのような社会を激しく嫌悪するがゆえに、社会に参入したくないと思う。社会から切れていたいと願う。そして、満たされない必然性の欲望を、身体改造に求めるのである。

あるいは、シバとの最初の性行為のシーンで発せられる、次のような言葉。

かってに濡れてくるなんて、便利なものだ。

ここでは性行為でさえ、ある種の諦めをともなって、観じられている。性は、コミュニケーションの便利な道具でしかないとでもいうかのようだ。

つまり、異性との出会いから性にいたるまでの時間、が留保されない。そこで、運命的な出会いかどうか逡巡している、時間がない。運命は宿命に短絡される。あるいは、宿命は永遠に訪れず、先延ばしにされる。

こうしてみた時、他者の死によってかろうじて、必然性の感覚が、つまり生の一回性の感覚が、ルイにわきあがるようにして回帰してくることの重大さが理解できる。

そして、おかしなことに、それは「シバさんは殺していないはず」という全く無根拠な祈念という形をとっている。

一回限りの出来事は、前もってそれと知ることはできない。何かが起こって後、「ああ、あれはそういうことだったのか」と溜息をもらすことができるのみだ。それが、感嘆の溜息なのか、後悔のそれなのかは別としても。

だから、この祈念は正当である。未来を欲望するとは、常に、祈りであるほかない。

ここで、ルイは未来を正しく欲望しているのだ。


ところで、管理社会への抵抗は、もっと色々方法があるように思う。

例えば、パゾリーニの映画のような、陽気な犯罪者はどうか。私は、陽気な犯罪者こそ、最もよく管理社会に抵抗しうるのではないかと夢想する。

東氏が、「犯罪者の自由」というリスキーな表現でいわんとしていたことが、もっと理論的につめられていくことを願います。それを早く読みたいものです。

それにしても、300円は安いな。