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サルトルの『嘔吐』を読む。
存在の病。むき出しの存在。それらは、〈嘔吐〉として顕現する。
しかし、自意識過剰すぎる。存在という語で何かを言ってるつもりなのが気に食わない。どうして、恥かしさがもたらすユーモアがないのだろう。ジュネのように、恥や傷からこそ美しいものは生まれるという考えがないのだろう。
ロカンタンは存在の病を理解するのは俺だけだといわんばりだが、アニーの前では、ただの弱気な男じゃないか。しかも、女に救いを求めていたことに、後から、気がつくなどと嘘をつく。
一方で、〈嘔吐〉は、拒食症や過食症の人々によって、現実化されてるとも言えないか。彼や彼女は、なにによって吐くのか。他者の視線か。それとも、存在の病!?
一箇所だが、自傷行為もでてくる。存在を確認するために、指を切るロカンタン。
食欲や性欲は、けっして本能ではない。
歴史主義への懐疑。ロカンタンは、歴史家だし、アニーはミシュレの『歴史』を愛読している。しかし、二人ともそれを捨ててしまう。完璧な瞬間は、ないのだという理由で。
歴史の終わりと言われて久しい私たちから見て、歴史を信じていた時代があったこと自体、不思議に思う。しかし、同時に、完璧な瞬間の、冒険の、夢も確かに捨てているか。そのような啓示の瞬間など信じない生に耐えていられるのか。
〈援助交際をしていた子の多くは、今やメンヘル系になっている〉〈わたしは元気がない〉(宮台真司)
ところで、どうして歌に救いを求めるのだろう。声は、リアルだからか。音楽だけは、他の芸術と違う云々。しかし、最後に主人公が選択したのは、書くこと。その成否や如何。