ゴンブローウィッチ『フェルディドゥルケ』、べケット『ゴドーを待ちながら』を読む。

まず、前者。

学校、下宿、地主貴族の館が舞台。それぞれの場所で行われている、それぞれの抑圧に粘り強く抵抗する主人公。

学校では、生徒は無邪気で健全な青少年、と決めにかかる教師と戦い、生徒どうしの理想主義者と現実主義者の党派争いでは、その「間」に立とうとする。

下宿では、進歩派の婦人活動家とインテリ技師の気取りや欺瞞と、そして現代的でスポーツをする女学生の「ふくらはぎ」の魅惑と戦う。

地主貴族の館では、農奴解放後ますます横暴になる地主貴族と戦い、牧歌的な作男を理想化してしまうロマン主義には倒錯した欺瞞を感じとる。さらに、乙女ちっくな貴族の令嬢の「告白」にもノーといってみせる主人公。

徹底して、「成熟」が拒否されている。青臭さ万歳!おちり万歳!


一方、かわって後者。

二人のホームレスの間に、内容のない、いっけん意味不明な会話がつづけられる。また、主人と奴隷の象徴のような脇役が登場しし、乾いたタッチでその関係が残酷に描かれる。

帰るべき故郷も、守るべき伝統も、信ずべき宗教もなく、そして社会は不透明で、コミュニケーションはいつも挫折してしまう。そんな不確かな「状況」を生きざるをえない20世紀のわたしたちが、寓意的に示される。

できることといえば、ゴッドではなく、ゴドーを待つことばかり。

「もう行こう。」
「だめだ、ゴドーを待つんだ。」
「ああ、そうか。」
〈沈黙〉

あたかも今日の携帯電話を先取りしてるかのような無意味な会話の合間に、繰り返されるこの一節の、何と痛いことか。

これが、存在の劇といわれるゆえんか。

サラエボで、スーザン・ソンタグが上演してみせたかったのも、きっとその「難民」という存在の痛みに違いない。