折口信夫『死者の書』を読む。

この一篇をして「日本近代文学の最高の成果」と呼ぶ人がいるようだ。例えば松岡正剛さんのサイトでは、「この作品が日本の近代文学史上の最高成果に値する位置に輝いていることを言わねばならない。この一作だけをもってしても折口の名は永遠であってよい」とまで言われている。

しかし、これはむしろ正統なロマン主義の系譜にある作品ではないか。だって、死と愛についての小説なのだから。

死と愛は、どちらも本来語りえない。それなのに、それを主観的には語りえるものとして扱う。そのことにこそ、ロマン主義の本質がある。つまり、不可能なものを可能なものと考え、それを想像的に語ってしまうこと。そこに、ロマン主義の魅力があり、また罠がある。

この作品において、どれだけ大和の原野や二上山の風景が和歌や日本的な花鳥風月を通じて描写されていようとも、また、どれだけ民俗学的な「神の嫁」や「女の旅」が伏線として見事に物語られていようとも、この作品の主題は、みまがうことなくロマン主義だ。

それが問題だ。

つまり、あらゆる差異(西洋と日本、古代と近代、神と宮と寺、権力争い、身分の差異、男と女)がすべて消去されて、ロマン主義的に止揚されてしまう。

中将姫や、別の短編の主人公、身毒丸は、こういいたげなのだ。

「すべての世俗的な差異は心煩わしいものだ。できれば、そんなものは忘れてしまい、ひたすら阿弥陀様のことを思っていたい。うたてき世の中ことなどわすれて、ひたすら没我の境地に入っていきたい。」

このようにして、すべての差異は、阿弥陀信仰へと回収されてしまう。すべては、超越への契機にすぎないということになる。

さらに言えば、最初から女性的なものが優位におかれているのも、気になる。滋賀津彦は、最初から死んでいる。そして、藤原南家の郎女をこそ、作者は強い共感をもって描きたかったのではないか。

「日本人総体の精神分析」のようなことを、この一篇でしたかったのだと、作者は言う。しかし、全然精神分析的ではない。むしろ、折口信夫が周到にしかけた「日本近代の罠」というべきものであるような気がする。そして、この罠は今でも強力に機能していると思う。危ない作品だ。