大岡昇平『俘虜記』を読む

これは、ほんとに素晴らしい。こんな知性が、日本にかつて存在していたとは信じがたい。それぐらい素晴らしい。

『捉まるまで』の一章は、絶賛に値する。極限状態に立ち向かえるのは、やはり知性なのだ。分析的な知性なくして、倫理はありえない。そう思わせてくれる。また、その分析的で簡潔な文体に、そしてその行間に、気絶してしまいそうだ。真に力強い文体とは、このことなのだ。

「なぜわたしは撃たなかったのか」。この問いを巡って旋回する、筆者の内省と遡行。単なる内省によって、過去を捏造してしまうことを最も非倫理的だと筆者は考えている。

小林秀雄は、「魂のことを書け」と彼に言った。彼は、答えた。「俺は、事実だけを書く」と。

だから、人類愛も、若き米兵の頬の美しさも、それによって惹起された父の愛も、そして神よる摂理も認めない。いや、いずれの契機も保持してはいる。しかし、それらは「なぜ撃たなかったのか」という「極限状況」の問いに答えるには、不十分だと筆者は考える。

よって、事実のみが光輝く。撃たなかったという事実だけが。

しかし、後半に入ると、状況は一変する。というより、一種のアンチ・クライマックスを導入しているのだ、この作品は。そこで描かれるのは、いかに日本兵の俘虜が、退屈で、醜く、無力で、権威に弱く、阿諛し、こびへつらい、動物のように飲み食いし、精神性のかけらもないかについてなのだ。それを、延々と淡々と描写する、落ち着き払った筆者の目。

そこにあるのは、俘虜という宙吊り状態の生だ。もはや兵士でもなく、かといって市民でもない俘虜。そして、これら醜悪さ猥雑さも、また同じ事実の一部なのだ。

この落差こそ人間だと、筆者はいいたいのだ。そのことを、アンチ・ヒューマニズム、アンチ・ロマンの文体で語ってみせる手つきが、なおのこと素晴らしい。

心理を嫌う、スタンダーリアンの真骨頂ここにあり、とでも言うべきか。この文体と知性は、是が非でも、継承されねばならない。いや、文体や知性などと小賢しい言葉はいらない。ここにあるのは、愛、だけだ。絶対に、これは愛だ。

(わたしに、これだけの知性を担う誠実さがあるだろうか。これに匹敵するような。極限的な他者との遭遇にわたしは耐えられるだろうか。残り物としての疑問。)