武田泰淳『ひかりごけ』を読む

彼は、小説家というよりも思想家ではないか。「救いがないということが、救いであります」という倫理。それが、彼の思想の根幹だ。

一切のものは生起しては、流転して、そして消滅していく。そして、それらを一切包みこむ世界。また、それは、こうした世界とそこで生きる人々の悲哀と一握の幸福を肯定することでもある。

しかし、この肯定が、諸行無常の厳格なまでの徹底によってなされている。この徹底性な否定と生の肯定を、同時に描くこと。この難題を背負っているがゆえに、かれの小説はすべて失敗作たらざるをえない。

彼の小説はまた、時間的発展という近代小説のテーゼに反している。たしかに、ストーリーらしきものもあるし、事件らしきものも起こる。だが、登場人物の心理を克明に描写しようともしない。事件は起こるにしても、事件は否定も肯定もされない。むしろ、そうした人間の営みや生き死にを、大きく包み込んでいるような世界をこそ、描こうとしている。

「ただ、わたしは我慢しているだけなのです。」
「仕方がない。その物よ、そうやっていよ。」

人間は、皆死者の肉を喰らっているのだ。生きるとは、善悪の彼岸を生きることだ。だから、生きることは恥かしい。だから、恥かしいのを堪える。「わたしは、我慢しているだけなのです。」(これは、プリモ・レーヴィと同じ認識ではないか?)

だから、近代小説へのアンチテーゼとして、彼の小説はある。もし「歴史の終わり」を肯定するのだとしたら、武田泰淳のような世界観を必要とするはずだ。

そして、その思想を身をもって生きることは、とても困難である。