武田泰淳『滅亡について』を読む

表題作を含むエッセイ集。

仏教僧として自覚が、思っていたよりも、強いことに驚く。諸行無常。ただし、やわな詠嘆ではなく、もっと冷徹な原理としてのそれを繰り返し説いている。

「滅亡について」では(また、「無感覚なボタン」でも)、その思想が色濃く展開される。日本の敗北など所詮、部分的滅亡、にすぎない。滅亡について思い巡らすことなど、死を免れた者のする、子供じみた言い訳にすぎない。なぜなら、真の全的滅亡があったなら、誰もそれを語りえないのだから。

ただし、部分的滅亡に立ち会ったものが、それを機に全的滅亡におもいを致す時、その余りの冷酷非情さに身震いする。その身震いだけは、本物だと言う。

その身震いに似た「めまい」こそ、思想としての諸行無常を裏打ちするものだ。彼が、司馬遷の『史記』に読み取ったものも、同じものだ。

一方で、社会主義者として泰淳がいる。それは、「あの世」の極楽ではなく「この世」の極楽を建設することこそ、衆生救済ではないかという疑問の形をとって、彼に執拗につきまとう。

あらゆるものは変化し移ろい行くという大前提を保持しながらも同時に世俗的な倫理をも追い求める彼は、やがて詩的(絶対的)かつ散文的(相対的)な要素を同時に保持する、「小説」と言うアンビバレントなジャンルを選択することになる。

しかし、彼は文章が決定的にまずい。要するに、下手糞でおもしろくない。

しかし、おもしろくない小説しか書けないという彼のコンプレックスは、注目に値するのではないか。たとえば、吉川英二論では、彼のように調子よく語り物らしく大衆受けする小説を書くことは、「気恥ずかしく」てできない、と言う。

また、小説家になりたいと早くから漠然と思ってはいたが、「書くことがなかった」とも言っている。そして、敗戦をへて初めて、書くことができるようになったと。

「気恥ずかしさ」という微妙な抵抗は、小説の形式的な破綻とつながってはいまいか。またそれは、魯迅にたいする恐れや、中世の中国文学への評価や、谷崎の物語にたいする肯定にも、つながっているような気がする。また、逆に、三島を「もっとも普通人」で「クソまじめ」な「努力家」として揶揄気味に肯定しているのも、それとは無縁ではないようだ。

中途半端なインテリで、中途半端な僧侶で、そして中途半端な小説しか書けない小説家。その微妙な抵抗の仕方に、とっても惹かれるものがある。小説は、まったく不味いのだけれども。(それは、もしかしたら、ポストモダンに生きるわたしたちが皆、中途半端であることを強いられているからかもしれない。誰もはっきりした顔を持っていないのだから。複数の顔を、意識的にであれ無意識的にであれ、使い分けてはいるが、その中途半端さはぬぐいがたくある。皆、嬉々として、その中途半端さを楽しんでいるように見えるけれども。はっきりさせたいという欲望は、果たして断念してしまえるのだろうか。そういったことを考えさせる泰淳はやっぱり偉いのか。)