安部公房『砂の女』を読む

よくできている。でも、それだけという感じがするのは、なぜ?

砂の、無節操なまでの、流動性。砂の穴での、窮屈なまでの、定住性。この両者の対比に、さらに、個―共同体―国家の枠組みがかぶせられる。つまり、個人は共同体にたいして被害者意識をもつが、共同体は国家に対して被害者意識を持つという矛盾があり、さらに個人は警察や裁判や学校などの国家的な装置に頼らないと共同体の閉鎖性を打破できないという背理。

そして、男と女の問題。

なぜ、タイトルが「砂の男」ではなくて「砂の女」なのか?それが問題だ。砂の穴に閉じ込められる男が主人公なのに、むしろ「女」が主題であるかのようである。女の、砂の穴のような吸引力が、あり地獄でもあり、天国でもあるといいたいのか。それに比べて、男の目指す自由やライフスタイルなど抽象的すぎて、取るに足りないというのだろうか。

文章レベルでは、意識的なスタイルが目立つ。また、主人公の独白が、あまりにも観念的。しかし、あの比喩の多さはなんだ。ドナルド・キーンが、解説で比喩の多さと正確さが素晴らしいといっているのがよくわからない。どちらかというと、私には煩雑に思われた。

たしかに読み進めるうちに、いくつか引き込まれそうな場面があって、いい作品だと思うこともある。しかし、「よくできている」としか言えない。同じ不条理な寓話といっても、カフカに比べて、意識が先行しすぎている感じがする。カフカは、一行ごとにもっと生々しくて、肉体で不条理を生きているように感ぜられた。安部の場合は、すこしそれとは違う。ある種の構築性が機能している/することがあるとでも言うべきか。

ただ、この作品には、いくつか野蛮な箇所がある。そこは素晴らしい。破綻しそうな瞬間が垣間見えるのが、やはり私は好きなのだろう。