マルセル・プルースト『失われた時を求めて 全13巻』鈴木道彦 訳

19世紀のリアリズム小説への異議申し立て(ゴングールへの批判)。つまり、ベネディクト・アンダーソンの言う「meanwhile その間、一方では」という小説の原理、あるいはバフチンの言う「モノローグ」小説の原理(すべてを見渡せる作者=神の視点)、などはたしかに維持されているのだけれども、多様な隠喩による一文単位の引き伸ばし、過剰な描写による自在な遠近法(時には破たんしている遠近法)、理知的・道徳的な言説の挿入、その他百科全書的な知識の横溢などによって、その枠組みは崩壊している。芸術論としては、貴族社会=古典主義への批判としてはじまった文学、絵画、音楽の近代主義ブルジョアジーの勃興とともに擁護しながらも、ロマンチックな懐古趣味・中世趣味が底流のように絶えず反復されて、夢→現実→幻滅→夢・・・の運動がたえず繰り返えされる。そのようにして物語は前進していくが、むしろその中で取りこぼされ、いたるところに散在している断片=細部(一回限りの過去、つまり「歴史」)が微細な光を放ちながらさながら万華鏡のように存在していることこそ重要なのではないかとも思わせる。また、読者に強烈な印象を残す忘れがたいいくつかのシーン、たとえばコンブレーのサンザシの道、ゲルマント公爵邸での晩餐会、花咲く乙女たちの集団、眠れるアルベルチーヌ、語り手の祖母の死、ヴァントイユの四重奏、鞭打ちされるシャルルス男爵などなどこそがこの小説の本質(つまりある絶対性が顕現する特権的瞬間)ではないかとも考えさせられる。一方で、この小説は「語り手」の幼年期から老年期に至るまで成長を語った教養小説としても読めるし、さらにまた、19世紀末から第一次大戦前後に至るまでのいわいる「西洋の没落」期の、政治・経済・社会を描いた歴史小説としても読める。その意味で、『失われた時を求めて』は、小説の小説なのであろう。
また文学がそもそも、よく言われるように、「時間」芸術であることを考えれば、これほど見事な作品もないであろう。単線的な時間の発展があり、そして複数の人物の複数の時間があり、またそれらの時間がが合流し、あるいは間歇的に不意打ちのように現われ心震わせる時がある。それらは歓喜の瞬間でも苦悩の瞬間でもあり、またそれらの中間帯に位置する感情が無限のバリエーションで示されている。つまり、様々な感情の「アレゴリー」を形成している。19世紀末の第二帝政期という特定の歴史的時間を描いてる点では、シンボリックな作品であるが、一方で、様々な人物の示す様々な感情の断片を、読者は自分の実人生で出会う人々と比較し、検討し、考察しながら読み進めることができる。
また読者はそれらの断片をより合わせて、自分なりの一つの人間観・人生観を構築することもできる、つまり人生に立ち向かうための一つの価値体系を。また一つの断片の担う意義は複数でありうるのであってみれば、その一つが変化するだけで、その他すべての断片の意味もまた変わることがありうる。つまり、プルーストが言うように、一つの自我があるのではなく複数の自我があり、また同様に他者にもそのように複数の自我があるのであって、自己と他者の出会いや出会い損ねが持ちうる感情には無限大のパターンが存在しているのだ。だから、読者は読むたびに(全体ではなく部分的に読むだけでも)様々な諸関係の中で生きる人間のありようを、そのまま複数の諸関係の束ととして、認知することができる。そのような重層的な関係を読み解くこと。そして、それを自らの人生に立ち向かうための武器とすること、またその武器を鋭利に研ぎ澄ますこと。そのようにして、人は、鬱蒼と生い茂る<過去>の重みにとらわれたメランコリカーから、晴れやかに<未来>へと疾駆する天使となることができるのだ。そして<過去>と<未来>の狭間で打ち震えてる<現在>、つまり潜在的なものが顕在化する瞬間、無意志的記憶がよみがえる瞬間に立ち会ったわれわれは、匂いの、色の、温度の、味覚の喜びに打ち震える官能の人となる。その瞬間には、人はすでに人でなくなり、また時は時でなくなるのであって、ある種の無限性が開示される。それこそが『見出された時』でなくてなんであろう。

 中井久夫氏の表現によれば、「失われた時を求めて」は積分的な作品ということらしい。微分的な作家として、例えばキルケゴールを取り上げて比較してみる。「誘惑者の日記」「反復」などと比較してみるとどうなるか。
 <内容>のレベルで19世紀的な小説を解体したプルーストと、<形式>のレベルで、エクリチュールのレベルでそれを無茶苦茶に壊してしまったジョイスの比較。
 車、飛行機、電話、映画などの登場と大衆社会の出現が、貴族社会とサロンの文化にもたらした影響。つまり、交通とメディアの発達を、19世紀から20世紀の変化を吟味して、21世紀の可能性を探ること。
 ファッションような単なる美と時間の超越や圧倒的な風景のもたらす崇高な美との関係。
 そしてなによりも、呪われた主題としての「同性愛」。これはロマン主義への異議申し立てなのか。つまり、端的に不毛で、不可能な同性愛によって、ロマンティック・ラブを痛烈に批判していると読むこともできる。しかし、明らかにロマン主義的で、心理主義的な小説であることもまぎれもない事実。その差異が重要か。

それにしてもこのような作品を書き残して死んでいった一人の人物がいるという端的な事実こそ、もっとも恐るべきことのような気がする。