内田隆三 『社会学を学ぶ』

20世紀以降の社会学は、①形式化、②社会学自身の反省、という2つの大きな潮流とともに発展してきた、と著者は言う。たとえば、前者にはパーソンズAGIL図式からルーマンのシステム論にいたる系譜があり、後者には、マンハイム知識社会学からフーコーの知の考古学へといたる系譜が属する。そして、これらと同じ問題に答えようとする別の学的系譜、あるいは、別の「知」の不安の先鋭的な形象として、現象学マルクス主義が、傍らにつねに存在してきたと言う。

このような明快な見取り図をまず立てた上で、著者は、全共闘が盛り上がり、そして崩壊していく様を横目に見やりながら、学的彷徨の一歩を踏み出した自身の過去を語り始める。それは、自己の青春を語るというナイーブな企てなのではなく、むしろ社会学理論の興隆と変遷を、歴史的なパースペクティブの下に、再検証したいという意図の下に選択された方法である。それは、社会学の理論が、時代とシンクロしながらも、独自の発展を遂げてきたさまを浮き彫りにする。

前半では、近代西欧で生まれた社会学の歴史が、コンパクトに概説される。デュルケームの「社会学的事実」、ウェバーの行動の四類型、パーソンズの一般システム理論、ルーマンのシステム理論。

続いて、社会学に対して大きな影響力をもった理論について。マルクス主義と物象化論、レヴィ=ストロース構造主義フーコーの知の考古学。特に、フーコーの功績とその限界、の紹介がメインディッシュか。さらに、ポストモダンと全体を見渡す「知=学」の不在について、著者なりの考えが展開される。

後半は、一転して、近代日本で独自に発達した民俗学について。柳田國男の「山人論」と伊勢考、小松和彦の「異人論」をへて、天皇制と日本論への批判的言及が試みられる。

最後に、ベンヤミンの内在的かつ断片的な社会学的考察について。ベンヤミンの方法は、上記の普遍性と全体性を志向する、外在的な社会学にたいする独自の方法論として高く評価される。しかし、それは同時に、もはや全体的な「学=知」の存在自体が困難な時代に、わたしたち自身が立っていることと同義である、云々。

とてもよく出来ていると思う。でも、薄っぺらい入門書だから、物足りない(のはしかたないか)。あとは、原書にとりくむべきなのだろう。