古谷利裕さんの偽日記http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/nisenikki.htmlより

モダニズムの美術においては、作品を構成する個々のイメージやパーツではなく、それらの関係性、それらを組み立てることであらわれる構造こそ重用視される。例えばカロの彫刻で、それを構成するパーツである彩色された鉄板そのものは、それ自体として面白いものではないが、それがあるやり方で関係づけられ、構造が生まれる(全体化される)ことで、そこに意味(感覚的な実質)が浮上する。フリードはそれを、人の身体(のパーツ)を見るのではなく、人の仕種を見るようなものだという言い方で言う。つまり、モダニズムの「良い作品」は、「まるで陽炎のように」身体抜きで仕種(全体性)だけが純粋に立ち上がる、と。それは、文章を構成する個々の単語に意味があるのではなく、その文の構造によって意味が生まれる、というようなことだ。そしてそれは、複数の異なる要素(異なる知覚)が統合されること(マティスの絵がそうであるような意味において「目を瞑る」ことで生まれる「場」)によって実現される。

ジュネのことを語ってるように、読めた。特異な「身振り」に胸を打ち振るわせることをもっとも愛した作家は、生粋のモダニストでもあったのだった。特に、「モダニズムの「良い作品」は、「まるで陽炎のように」身体抜きで仕種(全体性)だけが純粋に立ち上がる、」という一説は、ジュネに捧げられた賛辞のようで驚く。