ised glocom議事録より 

さらに胡散臭いのは「安心・安全」というキーワードです。この標語のもとに、国はRFIDを推進しているわけですが、安心とはなんですか。安心に相当する言葉は英語にはないといわれていて、どうやら「本当に安全でなくても安全だと思い込まされている安心感」のことでしょうか。(高木浩光氏)

安心=一体感。安全=信頼。一体感は、信頼ではない。

メンバー数1万人以上の大規模コミュニティでした。さらにそのコミュニティ管理者は、「間違った内容がそのままになっても、雰囲気のほうが重要なんだ」と宣言し、K氏を徹底排除するに至りました。(中略)このような選択をしたmixiは、はたして「社会」なのか、「ムラ社会」なのでしょうか?(崎山伸夫氏)

しかし、mixiでは徹底的に「訳の分からない他者」には消えてもらう。これがmixiの流儀のようです。そしてそれはムラ社会的と呼びうる。

排除の論理と雰囲気。

すくなくとも私はコミュニティにはいろいろなものがあっていいと思いますから、強制退会もそれはそれでよし、とあえていいたい。むしろ私たちは、「違うコミュニティもある」ということを理解すればいいと思うんですね。高木氏

ということは、事後的に「苦情があったから云々」という前に、客観的に「こういうことをすると退会になります」と定義することはできないことを意味するわけです。となると、これはK氏だけの問題ではありません。これでは他のユーザーも、どうすればmixiを使い続けることができるのかがわからない。つまりユーザーに対して予測不能な退会リスクを与えるわけで、これは私企業としてもケアする必要がある。ですからこれは「私企業の自由」では片付けられない問題ではないか。崎山氏

白田秀彰氏のブリリアントなプレゼンテーション。

表現と行為と存在という従来の区別が不可能になっており、それらすべてが「情報」という形で一元化=可視化されているのが真の問題だ。たとえば、刑法では行為を処罰の対象とし、存在に関する次元はプライバシーとして処理してきたが、いまやハッキング(行為的表現)や個人情報(存在の表現)という境界横断的な事例に対処できなくなっている。よって、すべてが情報=アーキテクチャーに乗っかることを承知の上で、新たな線引きが必要なのだと提案。

東浩紀氏の指摘=「情報過多による認知限界の到来」

そしてこの認知限界の問題はなにを意味するのか。つまり、「存在の匿名性」は必然的に失われるということにほかならないんですよ。つまり情報社会においては、個人情報やプライバシーは擁護することができない。(中略)
だから社会に参入する手前の段階で、さらに複雑性を縮減する必要が出てくる。つまり、どのようなサービスやコミュニティを選択するのか、その判断を支援するソリューションが必要になる。そして僕の代わりに判断をしてもらうためには、僕についての個人情報をサービスに提供しなくてはならない。これが「存在の匿名性」の脅かされる基本的構図ではないかと思うんですね。

だとしたら、村上龍編『13歳からのハローワーク』は、この判断を支援するソリューションを書物というアナログな媒体で実現しようとした模範的事例だったと考えることができる。

自分で判断できる「強い個人」は、機械を使わなくてもいいかもしれない。しかし、「弱い個人」は機械に頼らざるをえなくなる。これは気持ちが悪いということにはならないと思うんです

弱い個人=繋がりの社会性は、けっして軽蔑すべき問題ではなくて、むしろこれからすべての人の生きる条件のようなものなのだろう。

そうなると、次の問題意識はこうです。判断できない人々が大量に出現したとき、どのようにうまく秩序づけて安定化させることができるのか、と。よく情報社会論では、「インターネットは個人の力をエンパワーメントする」とよくいわれます*1。こういうと、いままで持っていた能力が増幅されるかのような印象を持ちますが、僕はもっと違う意味で捉えるべきだと思う。情報社会が複雑になりすぎているので、エンパワーメントしないといままでどおりに社会生活を送ることができない、と考えるべきなんですよ。

問題機制の転倒。エンパワーメントしないといままでどおりに社会生活を送ることができないというのは、すごい言葉だ。ひきこもり、ニート、フリーターといった問題の本質とは何か、という問いにたいする力強い応答。

そこで私たち技術者や研究者は、すべて比較の問題として扱うわけです。これよりはあっちのほうが、相対的に問題がすくない。その比較の積み重ねで技術論をしているだけなんですね。そのとき、もっとプライバシーを侵害しなくとも済むアーキテクチャが採用されなかったとして、それを明らかに問題だといえるのか。現実的に考えると、「明らかにまずいとはいえないが、やったほうがいいのにもかかわらず、実際にはやられていない」という類の主張は通りにくいわけです。まして運動にするのは難しい。「このサービスでいいのか」と自ら疑問に思うことのない人々が大半だとすれば、そうした運動は起きようもないんです。

工学者の発想法=比較してよりベターなものをという発想の限界。

たとえば、人に殺されるのを避けるためのシステムというものを考えてみる。人々の個人情報をつぶさに把握して、統計的に殺人を犯す確率の高い人間を探し出すシステムをつくったとします。もちろん、自分は誰かを殺すつもりなどないという人が大多数でしょう。すると、ほとんどの人は安全になるからという理由で個人情報を渡すだろう、というロジックは成り立つ。「殺人は減るのだからいいじゃないか。あなたはもともと殺人などする気はないだろう? あなたは殺されなくなるんですよ」、と。(辻大介氏)

白田氏は、近代国家と憲法もまた、中世的な複雑な社会関係の縮減装置であったという仮定から、いまやその複雑さの縮減装置が、国家からコンピュータへと移行しつつあると説く。よって、従来のプライバシー概念は失効し、あらたに「ほっておいてもらう権利」とは何なのかという問いが浮上する。

となると、解決の方向性はむしろこうなります。個人情報や嗜好情報の管理に、認知的な能力をもった人間は一切関与してはならないというルールを明確化すれば、この問題は回避できるのかもしれない。もちろんプログラムをつくるのは人間ですが、誰か特定の個人についてどうする、という類のプログラムを書くことを禁じる。そしてそこには国民的な監査のようなチェック機構を設けるようにする、と。これが新しいプライバシー問題の解決ではないか。(中略)
社会の複雑性を縮減する装置が、国家からコンピュータに移る。そしてコンピュータに相当の個人情報を渡すようになる。そうだとしても、これまで憲法によって国家を縛ってきたように、なんらかの強制的な枠組みをかければうまくいくかもしれない。それこそ、私たちの社会がこれまで歩んできたプロセスの直線上にある。そんな気がしてならないんです。