ised glocom 倫理研第六回より

そこで1890年にウォーレントとブランダイスは“The Right to Privacy”を書きました。もともとプライバシーの権利は、テクノロジーに対するカウンターとして提唱されたという経緯があります。

 そしてその対立関係は、1890年から2005年の現在まで続いていました。要は、個人を社会の側に取り込もうとするテクノロジーの動きと、私たちが数千年間保持してきた「自分の領域を守るんだ」という前提が対立していたわけです。ところが、これからどの段階になるかはわかりませんが、我々は自分自身が完全にコントロールできる領域を放棄しなければならない状況が到来するでしょう。そのときプライバシーの問題は、逆の方向に消えていくことになるのです (白田)

現代国家の基本的な構造は、みなさんご存知のように立法・司法・行政の三権分立といわれています。これは近代に入って制定されたものです。この時、近代はどのようなシステムを想定していたのか。それは立法者がプログラミングし、それを行政がマシンとして実行するようなシステムなんですよ。

もはや私がなにをいいたいのか、みなさんおわかりかとは思います。つまり行政というシステムは、もともとマシンであることを要求されていた。そして、ようやくビッグイットというマシンが出てきた。であるならば、この行政の部分は機械化してもいいのではないか。ただ、立法と司法に関しては、近代においても人間的な判断を下すことを前提にしているわけですから、そのままでいいと思います。(白田)

そうです。だから加速度の問題で、100年とか200年経てば、加速度は変わらなくなるわけです。みんな同じような教育を受けるようになればそうなります。いまでも同じ義務教育を受けて成績は違ってくるわけですが、いずれは安定してしまう。つまり東さんのいう認知限界の問題は、実は近代の初期においても同じだよね、ということで終わってしまう議論ではないか。それは短期的な議論だと思うんです。(鈴木)

なるほど、資産運用ではなく個人情報の運用という発想ですね。個人情報が資産で、その資産運用をしなければいけないような時代に入る。それはたしかにありそうだ。(東
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