ised glocom第六回設計研より

情報財のコストが劇的に下がること→智の配分と富の配分の乖離、固有名の機能=帰責性、教養の崩壊、

固有名というのは、要はこの「心の理論」を呼び出すフックになっている。そして「心の理論」を呼び出すことで、私たちは可能世界をイメージできる。

誰かのせいにすることを「帰責性」と呼びます。誰かに責任を帰することで現状を変えるというのは、言いかえれば「再定義可能性」のことです。環境管理型権力は再定義可能性を必要とするということは、「このシステムっておかしいんじゃないの」という異議申し立ての可能性がなくてはならないということを意味します。そしてそのためには、固有名や責任者が必要なのかもしれない。集団でものづくりをすることはできる。しかし、そのつくったものに対して異議申し立てや改良や再定義をするときは、帰責先としての固有名を必要とする。あるシステムが「みながつくった」ということが強調され、脱固有名化されると、そのシステムへの批判能力は失われていく。ここは少し真剣に考えるべきところかと思います。

近代の発明として、オーサーシップ(作者性)があることはよく知られています。アルチザン的なものとオーサーシップは異なる概念で、アルチザンは職人として実際にものをつくる人ということですが、オーサーシップはどちらかといえば責任を取る人に近い。

60年代から70年代にかけて、作者性の解体については文学理論や美術理論でよく議論されていました*2。そのような作者性解体論とオープンソースやモジュール化の話は、僕から見るとよく似ている。つまり、このソフトウェアはみんなでつくったので誰がつくったとはいえない。そこにはもう作者がいない。こうした作者性なき知の生産がいまは高く評価されているわけです。しかし、本当にそれだけでいいのか。作者性の力もすごかったのではないか。