稲葉振一郎『リベラリズムの存在証明』を読む。

理論が、生々しい。それが、なにより凄い。

波状言論5,6号』で東浩紀は、「リバタリアン的土台の上に複数のコミュニティが乗っかっている」というのが現在の社会だと言う。また、北田暁大は、「リベラリズム」とは、そのコミュニティ間の移動の自由に関わるもので、特にそこからの「降りる自由」を妥当かつ正当な方法でもって個人に保証する思想だと言う。

上記の二人とも賛辞を捧げているこの本の主題は、「なぜ国家は必要なのか」という問い。特にノージック最小国家論を吟味することで、その問いと格闘している。そして、リベラリズムを再構築しようとしているのだ。たとえ、それがリベラリズムの限界を容赦なく照明するものであったとしても、著者はそれを悲観も楽観もせずに認識せよと呼びかけている。それこそが、「魂」=権利本位的道徳に忠実なる道なのだと。

マルクス主義の崩壊以降、リベラリズムと国家の関係と言うのは、大きな問題を抱えている。また、自由の内容が変化しつつある現在、「自由主義とは何か」という問いが噴出するのは当然とする東氏の指摘は大いに頷ける。

この本は、よく読まれねばならない。細心の注意を払ってまた再読したい。

(追記)
「誰にも愛されず、必要とされず、たとえ死んでも悲しまれないような存在」をめぐる思考実験には、強い感銘を受けた。このような存在が殺された場合、いったい誰が殺人犯を裁くのかという問い。この場合、彼に代わって、殺人犯を追及してくれる他者は誰もいない。では、彼の死は、そのまま遺棄されるべきか?いや、そうではないと著者は言う。それは、「社会」が裁くべき主体となるべきというのが、権威本位的リベラリズムの立場なのだという。だって、彼にも「魂」があったのだから。彼の「魂」を見捨てることは、その他すべての「魂」を見捨てることに等しいという強い倫理的主張でもって、それを否定する。(宮台真司氏が、波状言論で言った「脱社会的存在が遺棄されるのはしかたがない」という悪魔的なアイロニーと正反対だ!もちろん彼のアイロニーはいつもぎりぎりの綱渡りのようなもので、自ら身を挺して、奈落の底に一歩間違えれば転落してしまうわたしたちを啓蒙してくれるのだけれど。)
 私もずっと似たようなことを考えていた。それは、無意味に生まれ、無意味に死んでいくようにしか思われない存在が仮にいるとしたら、それをどう考えればいいのか、といったこと。これは単なる抽象的な思考ではない。むしろ、ある種の現実だと思う。
このような存在の最も顕著な例は、国内的には「ひきこもり」の事例であるし、グローバルな視点を取れば、今後予想される環境問題や飢餓や紛争などにより早すぎる死を迎えるだろう大勢の人々―それは直接的にわたしたちとは関係がないが、しかし全く関係がないとはいえないような人々である―と私たちの関係についての問いでもありうる。もっと直截的に言えば、イラク戦争やテロで人がどんどん死んでいることをメディアを通じて「知っている」のに、日々平和な生活をこの極東の地で難なく営んでは、グダグダ言ってるわたしたち、という奇妙な解離の意識、それは形而上学的な罪の意識なのだろうけど、と関係していると思う。それを「魂」と呼ぶべきかどうかは人によって違うかもしれないが、少なからずこの関係性は否定できない。(この問題に関しては、田口ランディさんの対談が示唆的http://www.shobunsha.co.jp/
 こうした、一歩間違えれば、宗教的な領域に入りかねない問いを、リベラリズムにできることが必ず何かあるはずという強い信念の下に、執拗に思考していく著者に、わたしは強い感銘を受けたのだ。
 しかも、「社会」が裁くべき主体だから、それがすぐさま「国家」の必要性を意味しはしないと、論理的な短絡を慎重に避けている。それどころか、さらにそこにアーレントの「忘却の穴」の難問をぶち込むのだ。それに関して、粘り強く思考を続けてゆくくだりは、圧巻だ。
 著者の結論は、どちらかと言えば、悲観的なものだ。管理社会化がますます進行していく中で、全体主義化の危険は少ないとはいえ、「忘却の穴」が発生する確率はむしろ高まっているのではないか。たとえば、企業を巡る近年のトラブルでも、組織ぐるみの隠蔽工作は日常茶飯事に起こっている。しかし、リベラリズムは、他者への寛容を旨とするがゆえに、制度体への介入には慎重であらざるを得ない。制度体が、どのような価値や思想や信条を掲げていようとも寛容であるべきだし、さらには内部である種のカルト化が進行していようとも(オウムのように!)、安易に内部に介入するべきではない。なぜなら、それこそがリベラルという価値なのだから。しかし、ここが、リベラリズムのある種の限界でもあることはまぎれまない事実。(この点を巡って、北田氏のいう「降りる自由」を巡る議論もあるのだろう)
 「しかし、全的滅亡はいまだ真に全的滅亡であったことはない」という武田泰淳のような絶望的な認識こそ希望であるという考えを、著者もまた支持する。「だれか必ず生き残って、語るものがいるだろう・・・」、そして歴史は続く。

それにしても、社会学や社会システム論などの勉強もせねばならない。ざっとでもいいから、基礎的な事柄はおさえておきたいもの。そのためにも、第一章からよく読み直してみたい。いつのことになるかわからないが・・・。