フーコー『監獄の誕生』を読む

規律訓練の社会から管理社会に移行しつつある。これが、ドゥルーズの予言でもあり、遺言でもあった。「君達の先輩が苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように」、管理社会について若者よ、たゆまず思考し、その欺瞞を暴けという言葉をわたしは胸に銘記していたい。なぜなら、その深刻さは計り知れないと、最近つとに思うから。

が、その前に、規律訓練社会とは何であったのか、知悉しておく必要がある。

華々しい身体刑、祝祭としての、見世物としての、王の権威の誇示としての、過度に残虐な身体刑は歴史から消滅して久しい。そして、その後にやってきたのが、規律訓練社会だ。だが、いつ?いつ、それはやってきたのか?

古典主義時代18世紀→ナポレオンと第二帝政時代→19世紀の規律訓練社会へ、と大まかな見取り図が最初に提示される。そして、それぞれの歴史の断絶面を見事に提示してみせるフーコー。そして、それは権力の政治技術論であり、〈微視的権力〉論であり、その社会的機能を問うものだという。つまり、マルクス主義的な上部構造と下部構造の二元論でもなく、明確な権力の中枢があって、そこで階級的な搾取が行われているのでもない。むしろ、それは一種の〈経済的〉な〈配分〉の問題なのだという。これが、フーコーの権力論の新しい点。しかし、あまりにもアナーキスティックすぎると非難される点でもある。(それは、マルクスの「資本論」に主体の介入する余地がないという非難と同型に思える)

近代を支える根幹的な諸制度。軍隊、学校、病院、工場、そして監獄。これらの場所で機能してるのが、規律訓練、だと言う。規律訓練とは、たえまない監視であり、規格化であり、試験であり、それによるノーマルとアブノーマルの分割であり、なによりそれらによる主体化=服従化である。
 それを象徴的に示しているのが、ベンサムの〈一望監視制度〉パノプティコン。建築物による巧妙な誘導であり、不可視の権力が機能する見事な図解となっている。独房の囚人からは、中心の監視塔にいる監視人の影しか見えないが、監視人からはすべての囚人が一望の下に監視できる。つまり、見ることはできないが、絶えず見られている。そして、絶えず見られているという視線を囚人が内面化したとき、彼は近代的な主体化=服従化を果たすであろう。

(今日は時間がないので、続きはまた。たくさんの論点があるので、シノプシスを抜き出して要約しておいたほうがいいかもしれない。)