渋谷望『魂の労働』をさわりだけ読む

この本は、上記のフーコーの権力論を受け継ぎ、管理社会の批判へ向けて深化させようという労作。

第一章「魂の労働」について。「感情労働 emotional labor」の重要性がよくわかった。ネグり=ハートの『帝国』でも出てきていたが、その意味を理解できた。
 「介護労働」などに典型的に現われている、労働の概念の変化。それは、マクドナルドのメニューにある「スマイル 0円」の問題だ。ポスト工業化段階に入って、サービス産業へと労働の中心が移行したが、それは労働者に「感情労働」を強いるものだ。機械や工場のラインを相手に仕事しているのと違って、対人関係の中に入ると、別種の拘束が働くと言う。つまり、顧客を前にして、労働者は、自己の感情をコントロールしなければならない。
 特に、介護労働では、労働者は、介護される側の要望を無下にあしらうことも許されない。つまり、労働者は、良い意味でも悪い意味でも、〈労働力商品化〉に徹することができない。いつもニコニコしていなければならないという苦痛は不気味である。
 しかし、困ったことに、それは奉仕する喜びとか心の触れあいだとか人の温かみとかが「介護労働」にはあっていいね、と曖昧な言葉でもって、むしろメリットであるかのように扱われる。機械を相手にするより、ましじゃないかという嫉妬にも似た非難。もともと「家事労働=アンペイドワーク」の延長で「ホームヘルパー」という概念が生まれたように、それは、介護労働の低賃金化に繋がっているという。これが、「感情労働」の両義性だ。

 さらに著者は、近年、この感情労働が社会全体を覆いはじめたのではないか、と指摘する。ポストフォーディズム社会における「顧客志向」の経営では、労働者は顧客と感情的な同一化を求められる。そして、積極的に「経営参加」する「自発性」が社員に求めれる。それは、労働者の、企業への全面的依存であり、いわば〈生〉そのものの労働化なのだ。

これは、フーコーの生権力がますます社会に浸透していることにほかならず、いまや社会で「活動」すること自体が、すべて一種の「感情労働」であるかのように、錯覚される事態を生んでいる。
 感情まで管理される社会に生きるわたしたちが、〈キレル〉行為にアディクトしてなんの不思議があろうか。北野武の「座頭市」がなぜかくも痛快なのか、これによって思い返してみるといいだろう