三島由紀夫『仮面の告白』

偽者と本物。仮面と素面。演技と自然。これら二項の差異を撹乱すること。近代文学の宿命である「告白」という制度を逆手にとり、ほとんどキャッチュな形象とレトリックでもってゴテゴテと飾り立てた文体で、ついには、その告白が「本気」なのか「演技」なのかわからなくすること。

ポストモダンな小説と呼ばれても不思議ではない作品を、早くも終戦直後に発表してしまう彼は、やはり天才だった!?しかし、それにしては読んでいて、面白くない。(むしろ、不愉快だ)

面白くない理由は、上記の二項の差異の撹乱が、あくまで、イメージのレベルで遂行されていることによると思う。つまり、あまりにも意識的にイメージを操作することに頼り切っているため、真に「不意打ち」と呼ぶに足る出来事が小説内部で起こらない。「不意打ち」だけが近代的な主体とそれを形成してきた近代文学を内部から揺さぶることができるのに、彼の小説にはそれがない。「不意打ち」は事前にイメージできないからこそ、不意打ちと呼ばれる。

また、この小説で彼は、性的志向をめぐる正常と異常のフーコー的な権力ゲームを見事に闘っているのだ、とかいう評価もいっけん可能に思われる。しかし、近代的な正常/異常の枠組み自体に意識的であるあまり、それを壊すところまでいっていない。むしろ逆にその枠組みに対して、「偏愛」を抱いているようでさえある。そう、この逆説的な偏愛こそ、三島が日本と心中せねばならなかった理由ではないか。もう守るべき「日本」が何であるのか誰にもわからなくなりつつあった時代に。

性と愛と結婚の三位一体に揺さぶりをかけるという戦略や、戦争との距離のとり方、旧制高校的なものと大衆文化、などなど気になる点はいくつか残る。彼のその他の作品もいくつか読んで
考え直してみるべきか。