渋谷望『魂の労働』読了

よくできたデッサン、それも力強い線で的確に描かれたような。

「規律訓練から管理社会への移行」は、どのように現象しているのかを描写すること。「労働」は、フォーディズムからポストフォーディズムに至り、どのように変質したのか記述=分析すること。そして、マイノリティはどのように「抵抗の主体」へと生成変化すればよいのか、できるだけ具体的に提案すること。それらは、一言で言えば、ネオリベラリズムの権力批判、ということになるだろう。

こういった今至急なし遂ぐべきでありながら、なおざりにされてきた諸問題を見事にデッサンしてみせている。(そう、いまだ解決の提示には至っていない。確かに、ニーチェドゥルーズの美学的なビジョンが参照されて、ヒップホップやブラックカルチャーの音楽や映画に希望が垣間見られるけれども、余りに紋切り型すぎて眉唾っぽい。というか、理論の人の限界を感じる。)

しかし、こういった認識は、左翼の敗北を認めることからスタートしている。これは重要だ。著者いわく、この本は一種の「敗北の考古学」なのだと。

以下、要点の抜粋ないし整理。

①規律訓練はもはやコストがかかりすぎる。コンピュータの発達などによって管理テクノロジーが開発されて、効率よく人々を監視できるようになった。もはや人々を「矯正」することは重要ではなく、システムの「効率性」が問題なのである。

②それは、「予防テクノロジー」として現われる。リスクをコントロールすることこそを、新しい権力は目指している。つまり、リスク要因たる人々はあらかじめ監視され、潜在的に「犯罪者」とされる。これは新しい優生学ではないのか?遺伝子レベルで潜在的な犯罪者や奇形の者が特定されるようになれば、それは悪夢ではなかろうか?

③リスクを査定するために必要なデータが集められる。個人は、不可分性indivisualではなく、可分性divisualとなり、プロファイリングされたデータの集積のようなものと化す。それにより、社会は有機的知識人=「媒介者」を喪失する。〈媒介的なもの〉はもはや必要ではなく、必要なのは工学的なテクノロジーなのである。

④それは、バーチャルな監視であって、「対人関係の消去」である。つまり、監視されていることを人々は知らないし、また知っていてもそれに「敵対」することができない。なぜなら、あくまでデータベース上のバーチャルな自己と人は格闘することになるから。

⑤対人関係の消去は、地理的な選別=排除を伴う。富者はゲイティッドコミュニティーを形成して門を閉ざし、貧者は荒廃したインナーシティーに閉じ込められ監視される。ショッピングモールはもはや猥雑で祝祭的な空間ではなく、擬似的な雑踏のシュミラークルである。つまり、そこでも「他者との出会い」はあらかじめ「排除」されている。

⑥こうした権力の変質に対応して、「労働」も変質する。福祉国家が解体して、会社による終身雇用から個人によるキャリア形成へと雇用形態が変化する。それは、いわば「フレキシブルな労働」が推奨される社会であり、個人は「リフレクシブな主体(再帰的な)」となることを強いられる。つまり、リスクを自らコントロールすることが「自己責任」の名の下に要求される。

⑦生産から消費へ、資本主義の中心が移行したことで、労働はサービス化する。そこでは、「感情労働」や「シンボル操作」による労働が中心となる。それは、人間の「魂」をもコントールしようとする生権力の一形態にほかならない。

⑧こうした感情レベルでのコントールは、「恐怖の政治学」としても機能する。つまり、構造的に産出される産業予備軍(リストラ、フリーター、パートタイマー、失業者、浮浪者)という貧困層が一定数存在することは、いわば「恐怖」を喚起する「みせしめ=スペクタクル」として機能する。それによって、リスクはリスクとして認知され、再帰的な主体を構成する契機となる。

⑨日本の現状に即して言えば、年金問題総務省の形成がその徴候である。年金問題では、世代間の対立が浮上しているが、この世代とはあくまで社会工学的な世代である。つまり、そこには連帯の契機がかけている。また、総務省とは、今や旧大蔵省に継ぐ権力の中枢として登場してきている。これは、戦前の内務省の復活であり、「良き統治」と「監視と処罰」の二面性を持つ権力である。

⑩こうした不可視の権力が社会に浸透するにつれて、個人は、ある種のあきらめとともに、社会の流れに身を投じるしかない。それは、ギリシア悲劇とまた違った意味だが、一種の「宿命論」の回帰をもたらす。(浜崎あゆみの歌詞を見よ。「花のようにはかないのなら、君のもとで咲き誇るでしょう・・・」となぜあのように切ないサビを持った歌が受けているのか?)

⑪では、逆にこうした流れにのりそこなったものは、どうなるのか。その極限として、著者が見出したのは、阪神大震災によって仮設住宅で「孤独死」を強いられた故郷喪失者たちである。それらは、いわば「国内難民」と化し、恒常的な例外状態の下で、「緩慢な死」を死ぬことを強いられている。いや、生かさず殺さず、ただ生き残ることを選ばされていると言った方がよい。それが「孤独死」を選択する「難民」の現状であり、それは世界のあちこちでまさに今起こっている事態なのだ。

この本がもたらしてくれる現状認識は、以上のようなものだ。著者は、こうした現状の突破口を、ニーチェドゥルーズを参照しつつ、ネグり=ハートの「マルテチュード」が持つ「ポッセposse」に見出そうとする。〈強者〉の自己肯定と〈弱者〉のルサンチマンの差異が、そこでのアルキメデスの点となる。その差異の絶対性を断固として信じ、追求し、勝ち取ること。

しかし、ニーチェの超人主義はいつの時代も困難である。