深沢七郎『楢山節考』を読む

今村昌平による同作品の映画を見て、強烈な印象を受けた記憶がある。生々しい生と性。アンチ・ヒューマニズム。そういったものが、リアリスティクな映像から強烈に発散されているので、打ちのめされた。

小説の方は、歌物語を取り入れたシンポリックな近代小説だった。特に、歌=噂の恐ろしさは、ギリシア悲劇のコロスや中上健次の小説のよう。

年老いた親を子が捨てる、結婚は個人の意志とは無関係、盗みは家族もろとも生き埋めによって罰せられる、などなど非人間的なルールが支配する世界である一方、親子の情愛や恋人、家族間の仲睦ましさは、けなげなまでに人間らしい。この落差が、ヒューモアをかもしだしており、不思議と肯定的な気持ちにさせられる。

しかし、ラストのカラスと雪の対比は、あまりに象徴的すぎて好きになれない。それは、リアリズムと象徴的な手法において、ジョイスの『ダブりン市民』を超える作品はないと考えているせいかもしれない。しかも、彼は極めつくした手法を破棄し、粉砕し、作り変えてしまった。それに比べれば、他のどんな作品も相対的に優れているにすぎなく見えてしまう。

この作品は、レヴィ・ストロースが熱い社会に対して冷たい社会を対置してサルトルヒューマニズムを批判したのに似ている。ただし、一方は科学的で他方は物語的な批判だけど。

それより、併録されている「月のアペニン山」や「東京のプリンス」が気になる。後者では、エルビス・プレスリーが好きな高校生達の日常を、テンポよくそして軽薄に、(心理的な独白を、このように、括弧でくくることで軽薄に見せると言う手法を多用しながら)描いている。「プレスリーの曲に合わせて、踊っていられればそれでいい」という男の子。それに比べると、女の子とデートするのはうざったいというのが、おもしろい。「楢山節考」と並べてみると、世俗の刹那的な肯定が同一である一方、村共同体の閉塞感と都市の開放感という差異がよく見えてくる。深沢七郎は、その両者を生きていたのだろうか。

(追記)そういえば、老母と息子(楢山節考)、妻と夫(月のアペニン山)、男の子と女の子(東京のプリンス)が主要な登場人物間の関係。しかし、妻は発狂して夫と離婚し、男の子は男の子の世界に浸っていて女の子にさして興味がない。それは、「母の愛」が強すぎるせいではなかろうか?
「母」へのラディカルな批判は、どうやって獲得すべきなのかを考えさせる。