アガンベン『アウシュビッツの残り物』を読む

恐るべき書物。だが、私的にも公的にも、避けて通れなくなるだろう。

まだまだ読み込みが足りないが、一つメモを。「恥かしさとしての主体」という考えは、最高にして最低な素晴らしい発想。鵜飼さんが、ドゥルーズとジュネの美学に触れて、「恥かしさ」あるいは「傷」の重要さを説かれていた。そのことを思い出す。

生政治と管理社会に対抗することができるのは、やはり恥かしさから生まれるある種の強さなのだろうか。しかし、それはどのように組み立てられていくのか。その答えはまだ出ていない。しかし、こういうものに比べると、意識的なアイロニーやパフォーマンスなど、何程のことがあろうかと思えてしまう。

だが、一方で、細見さんの『批評空間』での書評の通り、やたらに弁証法的な、観念的な思考が目立つ。特に、後半の「アルシーブと証言」の辺り。(この辺は勉強不足ゆえに理解が足りないせいもあり、後日再読の要あり)

ただ、フルビネクの非−言語(恐ろしく感動的)、ツェランの詩、木村敏の「間」、閾としての主体(これはベンヤミン経由か)などなど興味深いテーマが散見する。アガンベンは過去の著作にさかのぼって、よく読み込んでみたい。