『社会学のおしえ』馬場靖雄

第一章 社会的動物としての人間

社会学とは、人間に関するさまざまな出来事を、人と人との関係(社会関係)を中心に研究する学問である。たとえば、マルセル・モースの身体技法(techniques du corps)という概念があるように、身体的な立居振る舞いでさえ「社会」によって大きく異なる。また人間は、他の動物と違って、白紙状態(tabula rasa)で生まれてくるため、後天的な社会的要因に大きく左右されやすい。スティーブン・グールドの言うネオテニー(neoteny 幼形成熟)によれば、人間の本質とは「人生がゆっくり進行すること」にあるのであって、知的能力が比較的長い間にわたってフレキシブルであること、つまり、内在的な本能よりも外在的な社会に影響を受けやすいことこそ、その本質なのである。

社会学の「効用」とは、いわば「はしご外し」と「目から鱗」の体験にある。つまり、社会がそれとしらず「前提」としていることを突き止め、その前提を暴露してしまうことである種の啓蒙を行うこと。たとえば、ニーチェルサンチマン。それは、キリスト教の道徳的な「内容」よりも弱者と強者という社会的「関係」に着目することで、はしご外しと目から鱗の体験をもたらす。ただし、これは建設的というよりも破壊的な効果をもちやすい点に注意が必要だ。
 また、このような社会学的な見方を徹底すれば、「相対主義の罠」に陥ってしまうのではないかという疑問があるだろう。しかし、すべての見方を相対化しうる絶対的に客観的な立場(=あらゆる社会の「外部」)などそもそも存在しないのであって、観察者自体がすでになんらかの社会の「内部」者なのである。その意味で、こうした社会学的な批判というのは、自己言及的なループにとらわれながら、すこしづつ自己の方法や理論を軌道修正しながら進んでゆくものなのである。

第二章 行為と人間関係

マックス・ヴェーバーの『社会学の基礎概念』より

社会的行為の諸類型は、1目的合理的行為、2価値合理的行為、3感情的行為、4伝統的行為、に分類される。
 1に関しては、目的−手段の関係は、一回限りでは完結せずに多数の目的−手段関係が連なること、「目的−手段連鎖」を形成するという特徴がある。また、合理的とは、目的にいたるプロセスが合理的ということであって、目的そのものは不合理なことがありうる。
 2に関しては、価値観や信念は、人の内面に関することであるがゆえに、それとして知られることが困難であることに注意が必要。むしろ、この分類を「理念型」だと考えておくとよい。
 3に関しては、1や2のように意識的な行為ではなく、むしろ意識的行為と単なる身体的な反射行動の中間にあるものと考える。 4に関しては、意外に人の行為を大きく左右する要因であることにあらためて注意してほしい。例えば、パスカルの「かくも多くのキリスト者を作るのは、習慣なのである」という言葉を想起せよ。

心情倫理と責任倫理。2から心情倫理が、1から責任倫理が問われうるが、この二つははっきりと区別することは困難である。心情倫理は、ある意味で高潔であり美しくもあるが、責任回避の論理として使われるというデメリットがある。一方で、責任倫理は、つねに結果にたいして責任を負うという点では正しいが、不正な手段を用いてまで結果を達成しようとする傾向を生む。

吊り橋の恋。「情動二要因論」。たとえば、心臓がドキドキするという身体反応は、恐怖によって引き起こされる場合もあれば、恋愛感情によって起こる場合もある。つまり、1、2のように意識的な原因によって行為がコントロールされる場合だけでなく、3のように行為の原因が無意識的な場合には、注意が必要である。この点に関しては、精神分析を参照のこと。

1と3に関しては、「欲求」という観点で見ることもできる。アメリカの心理学者A・H・マズローによれば、人間の欲求は5段階に分類できる(欲求階層説)。1生理的欲求、2安全の欲求、3愛と所属の欲求、4自尊の欲求、5自己実現の欲求。

では、欲求と異なる価値観や信念に依拠している2に関してはどうか。これは、「規範」の観点からみることができる。しかし、規範の問題は、社会学の中でも難問(人はなぜ規範に従うのか)に属する問題であり、むしろこれに対する解釈によって、社会学者それぞれの立場が決まってくるほどである。
 規範とは、要するに守るべきルールである。が、例えば犯罪者などは、単にルールを守らないのではなく、むしろ別個のルールに従う者と考えることもできる。つまり、単に規範を破るものというよりは、むしろ世間一般とは別の規範に従っている者と考えるべき。そして、この規範の基準となるような集団を「準拠集団」と呼ぶ。

第三章 人間と集団

「集団」とは、役割のネットワークである。そして「役割」とは、ある社会的立場にいる人が、特定の場面で取るだろう(取るべきだ)と予測される行動パターンのこと。あるいは、規範(「集団」の中で通用しているべきの観点)が集団のなかでの各人の立場に応じて具体化されて割り振られたものを「役割」といってもよい。(「囚人のジレンマ」、「アイヒマン実験」。)
 集団成立の条件は、1誰がその集団のメンバーであり、誰がメンバーでないかを弁別するための基準が明確であること、2メンバー間の人間関係が、メンバーとメンバーでない者との関係よりも緊密であること、3メンバーの間に一定の価値観なり目標なりが共有されていること、と考えうる。そしてこの三つの条件を一挙に満たしてしまう方法がある。それこそ共通の「敵」を発見することに他ならない。(「スケープゴート」、「第三項排除」としての被差別部落天皇制)
 
第四章 社会システムとその環境

 1部分/全体モデル 関係は固定的、(「全体は、部分の総和以上のものである」)
 2動的均衡システム・モデル 関係は流動的、(精神医療における「家族療法」や「システムズ・アプローチ」では、子供が示す症状や反応が意識的なものか無意識的なものかは問わない。そもそも何が症状の「原因」なのかという問いをペンディングしておく。問題とするのは、その症状が現在の家族の均衡状態維持のためにどんな「役割」を果たしているのかを問うのである。)
 3開放定常システム・モデル 外部と内部における、継続的な資源・エネルギー・情報の交換を通じて、動的均衡状態に至ると考えるモデル。
 4自己言及的閉鎖システム・モデル 閉鎖性が開放性の前提とされる。また自己言及的であるからといって、自律的かつ自足的で自己完結しているわけではない。むしろ逆である。たとえば、「自己」を規定するためには、自己と同じレベルにある他の要素(メンバー)ではなく、上位の集合(クラス)との関係が必要であるように。したがって、システムが自己言及的に閉じられているということは、自足・自律・独立しているというよりも、もはや自分自身しか頼れないというネガティブな状態なのである。そして自分しか頼れない状況では、「自己」さえ無規定になってしまう。(ルーマン『社会システム理論』マトゥラーナバレーラ『知恵の樹』)

環境問題は、開放定常システムモデルでは解けない。それはシステム内部で処理できない「異物」としてある「外部」環境を、無理やりにも「内部」化しようとする試みにすぎない。むしろ、自己言及的閉鎖システムモデルを採用するべきではないか。それは分化した機能システム同様に、予期せざる反応をシステム全体に投げ返すたぐいのものだから。

第五章 宗教の誘惑

多くの新興宗教が誕生した時期には、「不安と生活苦の増大」という社会的背景があった(「宗教は民衆のアヘンである」)。しかし、近年の宗教ブームは、豊かさのなかでのそれであり、これらとは区別される。(1935年、昭和10年 大本教の弾圧)
 近年の宗教ブームの特徴は、1規模が小さい、2カリスマ的な指導者の存在、3組織・教義が未成熟、4社会に対して閉鎖的で、しばしばトラブルを起こす、5アットホームで親密な雰囲気を売り物にする、などがある。
 そしてその背景としては、1面白社会 日本経済・社会の成熟化を通じて価値観が変化し、いわば「遊びとしての宗教」がもてはやされている、2気枯れ社会 社会が豊かで安定しているおかげで失われた、生きがい・充実感・生活のめりはりなどを、あるいは家族の代替を宗教に求めている、3閉塞社会 同じく社会が豊かで安定していることで、若いうちから人生のコースや上限がある程度見えてしまうということがある。それゆえに、叶えられがたくなった「自己実現の欲求」や自己の新たな可能性を宗教に求めている、4不安社会 漠然とした将来への不安による、といった分析が可能である。

あおる宗教と鎮める宗教(呪術と世界宗教)。つまり、欲望を実現することでさらなる欲望を煽りたてる宗教と欲望の断念をすすめることで現世の幸福よりも来世の平安を願う宗教。

プロテスタンティズムと資本主義。三つの資本主義(ヨーロッパ=老人の、アメリカ=大人の、日本=子どもの資本主義)