保田與重郎『保田與重郎文芸論集』を読む

なんだこれは。

日本の橋が哀れっぽいとは、どういうことかさっぱりわからない。ローマの橋が引き合いにだされるものの、一貫してロジックがない。ただ、不気味なまでに、橋の名称が列挙されるばかり。

ただ、そのエッセンスを無理にでも引き出してみると、次のようになるか。

橋は、彼岸と此岸を、内在と超越を、この世とあの世を「橋渡し」するもの。しかし、日本の橋は、その境界性が曖昧で、人工と自然の対立が無化されているという。

村上春樹河合隼雄の対談で、日本人はなぜあんなにた易く自殺してしまうのか、というアメリカ人の疑問について話されていたことを思い出す。そこで、河合は「日本人は、生にたいする執着も弱いかわりに、死にたいする恐怖もそれほどもっていない。ほとんど輪廻転生を信じているとしか思えない。」という旨のことを語っていた。それと似ている。

恋人同士の相聞や、親子の離別、なども引き合いにだされ、橋の意味づけがなされている。それらは皆、橋の上で、あるいは橋をめぐって、古来取りかわされてきたのだ、と。そして、そうした悲恋や悲哀の感情が、歌として詠まれ、歌として伝承されてきたのだ。だから、そうした歌を聞くと、わたしの心は震え、歌の魂をもののあわれを感じてしまう、と保田は言う。

ロマン的イロニーとは、内容が無意味であることを知りつつも、形式的にそれと戯れる自意識、あるいは審美的態度のことをいう。

あらゆるものが、最初から不可能ときめつけられているようで、腹立たしい。しかも、その不可能性と戯れている。さらに、その戯れ方まで真剣である。

そんな奴とはどう付き合えばよいか。

答え。そんな奴には、一発、蹴りを喰らわせてやれ!

ただし、「大津皇子」や「木曽物語」について述べられていた、反逆精神としてのロマンに、魅力を感じてしまうのも確か。

今日でも、ロマン的イロニーはとても強い傾向としてあるような気がする。