島尾敏雄『死の棘』を読む

稀有な作品。

「もう絶対ダメだ!」と思ったことも、しばらくすると「なんてことなかったな」と相対化できてしまうことがある。そして、絶望的な気分にとらわれていた自分が、馬鹿みたいに思えて、ふっと可笑しくなりもする。
 こうした絶望→希望→絶望→希望の止むことのない反復。それをあくまでも真摯に描いているのに、というか真摯に描いているからこそ、滑稽に見えてくる。つまり人生は真面目な遊びなのです、という声がどこからともなく聞こえてきそうで、その意味で稀有なのだ。

なんと最後には、妻が夫もろとも精神病棟に入院してしまうのが、特に笑えるしまた感動的。二人の愛憎劇が「終わりのない」ことを証しているようで、素晴らしい。作中でも妻ミホは精神分析を受けるけれども、作品自体に「終わりある分析」と「終わりなき分析」の二つが同時にあるようで、その意味でも傑作と呼ばれるだけの資格がありそうだ。

過去を徹底的に暴くことには、原理的に限界がある。記憶が一度に蘇ってきたら、私たちは死んでしまう。むしろ適度に忘れることで、生きていられる。だから、ミホの仮借ない「審判」は、どこまでいっても「あなたはうそつき!」という失望で終わらざるをえない。一方で、夫トシオにすれば、それはほとんど神学的な「恐れ」や「厳粛さ」を彼に引き起こす不可能性の裁きである。
 だがより重要なのは、夫のトシオが、時々そうしたミホを見て「美しい」とか幼げに見えて可愛いいとか思い、劇的な緊張の合間にふと場違いな感情がわいてくる自分を、「へんだ」とか「あやしい」とひとりごちる場面だ。それが、文章間に緊張と弛緩の絶妙な移行を作り出していて、むしろこの「へんだ」と「あやしい」のかもし出すユーモアが、この作品を成立させている最も重要な契機ではないかという気すらしてくる。

フェミニズムの立場からすると、不倫して妻を狂気においこんだあげく、それを「狂女の美しさ」として絶対的に美化し、夫をあたかも被害者であるかのように描くのは、けしからんということになるのだろう。むしろもっと相対的なレベルで倫理を問え、と主張には頷ける。
 だが、コミュニケーションとディスコミュニケーションの問題を徹底的に描いている点で、やはり優れている。例えば「死んでやる!」とか「もう家を出て行く!」とかいう叫びの後で、二人がもみあってる内に妻の発作がとれ、柔らかな感情があふれてきて二人きつく抱き合い涙を流す。このシーンは何度も何度も作中で繰り返されるのだが、大事なのは、二人ともその繰り返しに飽き飽きするほど意識的であるのに、この行為がけっして二人の自由にならないこと、つまり相転移の中でなされる無意識レベルでの欲望の交換のようなものであることだ。それゆえ、いとこのTが、彼らを見て「そうやってふざけあって楽しんでいるんじゃない?」という疑問を抱きさえする。

ただ、第三者が介入してくると妻の発作が嘘のようにぴたりとおさまるのは、なにかしら世間的な抑圧があるように感じるし、夫が妻から逃げ出したいと激しく願うにもかかわらず、すぐに妻の側にもどりたいと思うのは、一種の甘えに見えてしまい、そういった点は好きになれない。もちろん、それは小説の問題というよりも、この日本社会の問題なのだが。

だが最終的には、人生は真面目な遊びなのです、という厳粛なユーモアをここまで感じさせてくれる作品はそうないので、やはり好きな作品ということになるか。