小此木啓吾『フロイト思想のキーワード』
ラカンに続き新書本を読む。
フロイトの復習にはもってこいの本だ。重要なキーワードのエッセンスだけを、小気味よく羅列してある。いくつかの発見と、いくつかの概念を再確認できた。
・フロイトの誠実さ
「そして私は、あのフロイトの学問的な真理を追求するひたむきさに、ほかの大人とは違う誠実さを感じていた。自分がいままでやってこれたのはフロイトのおかげです。自分があの有名な症例ドラであることを、自分の心の支えにしてやってきた。なぜならば、私の求めた誠実さと出会えたのは、いままでの人生の中でフロイトとだけだったから。」(ドラの証言)
・書くこと
「先週、ひどく働いた晩があって・・・・私は、不快で苦痛な状態だったのですが、そういうときに私の頭脳は一番よく働くのです。」「精神分析は本来書くことによる治癒(writing cure)として生まれた」
・肛門愛と秘密を持つこと
「秘密をもつこと」=境界設定、 自己確認作用、
「秘密の告白」 =自他の融合、親密化作用
自分の意思に反して「秘密の洩れてしまうこと」→「無気味さ」
・ユーモア
「ユーモアは、快感を妨げる苦痛の情動にもかかわらず快感を獲得するための一手段である。」「一個人においてすでに完結しており、他人が関与することでそれに何ら新しいものを加えることはない」
・同一化とほれこみ
同一化=で「ある」こと 対象選択=を「もつ」こと
「同一化は対象選択の代わりにあらわれ、対象選択に退行した」つまり、同一化は、感情結合の最も原始的で、最も根源的な形式。
・喪の仕事
「悲哀の仕事は、(愛着の)この対象とのかかわりを一つひとつ再現し解決していく作業である。・・・・・愛する対象の死に出会った場合に必要なのは、この死の必然と和解し、死を受け入れるということである。まさにそれは、失った対象を心から断念できるようになるということである。悲哀の仕事は、このような断念を可能にする心の営みである。」
・事後性
事後性とは、一定時点での体験、印象、記憶痕跡がそれ以後の時点で新しい体験を得ることや、心の発達や成熟とともに新しい意味や心的な作用、影響力を獲得する心的過程を言う。
ダイナミックの事後作用を受けられなくなってしまって無意識に反復を繰り返すところに、心的外傷の記憶の特徴がある。
・性器統裁(genital primacy)と倒錯
どんな人間も程度の差こそあれ、倒錯的な傾向を持っているが、それは性器愛の愛と性によって統合されている。この統合が失われると、本来は部分的な要素であるべきプレジェニタルな個々の性愛が肥大し、拡大し、また、それが究極の目的になってしまうことが起こる。この場合を性倒錯と呼ぶのが、フロイトの定義。
・戦争神経症と内的葛藤
心的外傷説から内的葛藤説へ。死の恐怖から退却したい気持ちと、兵士としての責任を果たさねばならないという内面の葛藤が、戦争神経症の原因である。一定の出来事が心的外傷になるのは、その出来事の体験がこの内的葛藤と結びつくときである。
「国民軍は戦争神経症の培養土であり、職業的な兵士、傭兵では戦争神経症のあらわれる可能性は少ない」
・固着と反復強迫
「神経症には心的外傷を引き起こした体験状態への固着がある。神経症患者は心的外傷をたいけんした状況の中にそのまま置かれていて、その状況を解決しないために、時間の流れが止まり、その状態がいつまでも心的現実性を持って、現在、そこに存続し続けるかのような状態に陥る」
・見せかけの道徳性
見せかけの道徳性は、国家・社会権力によって原始的衝動を無理に抑圧した強制の産物である。だからその道徳性は、心から納得してその衝動を断念した結果確立されたものではない。外的な強制が内的な強迫に転化したものにすぎない。
・分裂した自我
「思っていたほど自我は完全なものではない」「みんなが思っているほど、人間の自我は強くもないし、全能でもない」「現実を否認する快感自我と現実を承認する現実自我の併存という自我の分裂を統合することは難しい」
「これらの患者は、自分自身が去勢される可能性の証拠として体験されるところの、女性におけるあの恐ろしいペニスの喪失という事実を承認しない・・・・・。そのために、彼は女性器におけるペニスの欠如を示す自分自身の感覚的知覚を否認し、その反対の(女性にもペニスがあるという幻想的)確信に固執するようになる」
「このように子供は、一方で現実を否認し、自分に対して何一つ禁止を加えたりしない快感自我によって快を求め、幻想に耽る。その一方で、同時に、現実の危険を承認する自我は、その危険に対する不安な防衛をするために、この快感自我をスプリット(分裂)させてしまう、つまり、じがそのものを分裂されることを防衛につかってしまう。」「これは巧妙な困難の解決方法である。欲求も満足できるし、現実にもそれなりの敬意を払うからである。」「ただしこのような解決は、『自我の分裂』という犠牲によって、はじめて達せられるもので、この分裂は決して再び癒えることがなく、むしろ時とともに拡大されていく。・・・・・・われわれは自我のさまざまな過程は統合されるのが当然と思っていたために、この自我の分裂という現実は大変奇異に見えるが、実は自我の統合は、常にこれらの障害によって阻まれるものなのだ。」
最後に、ライウス、イオカスタの視点からエディプスコンプレクスを読む直すべきという著者の主張は、重要だ。「コロノスのオイディプス」「アンティゴネー」の読み直しも同時に。